北欧の成り立ち

近代化がすすむまで

近代に至るまで、北欧はヨーロッパでも辺境に位置し厳しい自然環境と乏しい資源ゆえに小国、後進地域とされていました(ヴァキング時代の隆盛やスウェーデンのバルト海支配などありましたが) 。イギリスで始まった産業革命に対しては国力の低さからスムーズに工業化を行えず、他のヨーロッパ諸国から近代化・都市化が遅れることとなりましたが、しかし農業技術の向上により生産力があがり北欧諸国の人口は増加、それにあわせて貧困層の都市部への流入なども加速。そのため経済的に立ち遅れていた北欧諸国では余剰人口として失業者があふれることになります。彼らは当時チャンスの国とされたアメリカへ移民として殺到しました。1840年から1914年までその数200万人といいます。


産業革命は資本主義社会、工業化社会を誕生させヨーロッパは列強として市場拡大のため植民地獲得に動き始めます。20世紀に入り、ヨーロッパを覆う列強の対立構造は従来隔離される地域にあった北欧にも影響が及び、徐々に国際対立に巻き込まれていくことになります。

ヨーロッパが戦場に、二度の大戦を迎え

第一次大戦においては北欧諸国は厳正中立を表明したもののドイツへの対応をめぐって政治的、経済的に厳しい状況に追い込まれたが、なんとか中立を維持しえました。戦後においては、直接的な戦災は免れたため、その復興も迅速でありました。


しかし第一次大戦後の混乱が落ち着いてきた北欧諸国にアメリカに端を発する世界大恐慌が大きな衝撃を与えました。当時、北欧においては社会主義勢力が政権を運営しており、積極的な財政政策を展開し雇用を作り出す政策を取り世界的な不況を脱出しました。その後不況がもたらした社会不安を緩和させるため公平な社会を実現しようと、政治の民主化と福祉国家への路線へと北欧諸国は進んでいきます。しかし世界をみると、大恐慌を発端とする国家対立により状況は悪化するばかり。やがてそれは二度目の世界大戦へとつながっていきます。スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランドはふたたび中立方針を打ち出し北欧中立同盟を形成しましたが、結局大国の力に押し切られフィンランドはソビエトのデンマーク、ノルウェーはドイツの侵攻を受け国は蹂躙されてしまいました。

戦後のあゆみ

北欧で唯一国内を戦場とさせなかったスウェーデンはインフラ設備が残っていたこともあり、いち早く復興をとげました。長期政権をとる社会民主党が従来の福祉政策をさらに推し進め、資本主義の競争原理と社会主義の分配原理を組み合わせた「スウェーデンモデル」と呼ばれる社会モデルの完成を目指し始めました。スウェーデン以外の北欧諸国も比較的早い速度で工業化が進み復興をとげたことで、同様の社会福祉政策に取り組んでいきます。完全雇用の達成と国民への富の公平な再配分、それは失業と病気、老後などの不安から国民を守ることにつながることと考える社会福祉政策は北欧共通の社会モデルとなっています。